セネガルに来てもう3ヶ月。
こちらの生活にもだいぶ慣れてきたが、どうしても慣れないことが。
それは、こんなことです。
村人:ナフィオ?(元気?)
僕:メヘメン(元気だよ)
村人:ター ハーリス?(お金はどこ?)
僕:はい??
お金をよこせということなのかい?
初対面というのに、礼儀もくそもありません。
また村を歩いていると、子供達に囲まれこんなことに。
子供:チュバーップ!カドー!
子供:ボンジュール!カドー!
チュバップとは現地語で白人という意味。
カドーはフランス語で、プレゼントという意味。
子供から大人まで、そんなことを毎日のように言ってくる。
外国人と見るやオートマティックにカドーという単語が発せられる。
普段は、「はいはい、また今度ね。」と受け流すのだが、疲れているときなどは大変。「もう勘弁して」、あるいは「なんて礼儀しらずなんだ」と思ってしまう。それと同時にやっぱり自分は日本人なのだなと実感する。この社会には日本的な礼儀など存在しないのだ。(もちろんセネガルにはセネガルの礼儀がある。)にもかかわらず、「礼儀しらず」なんて思っている自分は明らかに日本人の眼鏡でもって彼らを見ているのである。
セネガルでは豊かな者が貧しい者に与えるのは当然の行為。Partage(分け合う)ことが社会の価値観なのである。彼らのマインドでは、外国人=お金持ち、という等式があり、彼らにとって豊かな外国人は分け与えるくれるもの。こんなふうに彼らは彼らの眼鏡でもって僕たち外国人を見ているのである。
僕の眼鏡とセネガル人の眼鏡。それぞれ違った像を映し出す。
異文化で暮らすむずかしさはこういうところにあるのだろう。
互いの眼鏡に映る像を共有するにはコミュニケーションしかない。
にもかかわらず僕のフランス語とセレール語は全く進歩していない。
壁は大きい。
話を元に戻すと、このハーリス/カドーの習慣、現地の人にとっては軽い挨拶であることが多いようである。
ある時、子供にお金を求められ、「又か」とうんざりしていると、満面の笑顔でバイバーイと言って去っていく。うんざりした自分がアホらしく感じる。同時にますます、セネガル文化というものがかわらなくなる。
異文化というものは結局不可解なものである。そのような不可解さが僕を引きつけるのかもしれない。
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